« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »

2005年9月 8日 (木)

【シリーズ・利根川】①水源探りに奥利根湖へ!

利根川の始まりは大水上山の雪渓の一滴
 時計の針は今年の5月2日の夕方に遡る。私は故郷である千葉県香取郡東庄町笹川の鯉屋旅館の宴会場の窓から、利根川に沈む夕陽を眺めていた。この日は2年前、交通事故で亡くなった同郷の高木昌宣さんの命日だった。鯉屋旅館で彼の遺稿をまとめた詩集「レヴィンノ系譜」の出版記念を兼ねた偲ぶ会が開催されたのだった。出版のお手伝いをした関係で、招待されていた。

▽水源は「秘境」あるいは「聖地」
_152  少年時代の思い出が蘇ってきた。窓の外の利根川には、よく魚釣りに来ていた。釣竿は自家製だった。裏庭に生えていた節の長い竹(チョウチンダケと呼んでいた)をつなぎ合わせたものだ。フナやハゼが面白いように釣れた。ふと、「利根川の始まりって、どうなってるのかな。一度見てみたいな」と思った。笹川は河口である銚子に近い。目の前にある大河が、利根川そのものだと思っていた。夕陽の方向に水源があることに、この時までまったく関心がなかった。
 この夏の小旅行の宿を谷川温泉に決めたのは、5月2日の延長線上にあった。ただし、結論から言うと、利根川の水源は普通の人間には近づくことのできない「秘境」あるいは「聖地」であることが分った。水源は新潟と群馬の県境の大水上山(1834メートル)の雪渓だった。
利根川の最上流部につくられた八木沢ダムによってできた人工湖の奥利根湖から見えるカワゴ山(1594.2メートル)の背後にあって、利根川の水源は、肉眼ではまったく見ることができない。経験を積んだ「山男」が奥利根湖の奥から川沿いに上っていくか、あるいは、空から「着地」するしか手段はなさそうである。(実際に「着地」できるかどうかは未確認である)

▽湖底には湯の花温泉が…
 水源ってどんなだろう? 8月31日に八木沢ダムを訪れて、近寄れないことが分ると、ますます好奇心をかき立てられた。ラッキーなことに宿の書棚においてあった「利根川水源紀行」(奥利根山岳会編)に詳しく書いてあった。昭和55年8月1日発行だから、少し古いが、参考になる。

*「利根川水源紀行」
  ……群馬県の最北端、北緯37度3分に…小さなピークがある。これが利根川の水源になる大水上山(1834メートル)である。そこから稜線が南東と南西に「八」の字型に長くのびる。1700メートルから1900メートルほどのあまり起伏のない稜線で、群馬、新潟の県境でもある。この稜線の内側には、いくつもの沢が深いV字型の谷をつくり、夏でも残る雪はスノーブリッジとなって見事なアーチを作っている。また沢のところどころには見事な滝があり、落差100メートル以上という滝もいくつかある。交通の便の良いところだったら、有名な観光地になるであろうが、ここではほとんど人の目にふれることなく、太古の昔からそのままの姿を残しているのである。この全長30キロ以上にもなる稜線には峠がまったくない。それは道がないということである。あまりの険しい地形と、厳しい自然のため道ができなかったのである。……本流を遡行して水源に達するためにも、川の中を進む以外に方法はない。……昭和42年に八木沢ダムの完成による奥利根湖の出現はそのまま本流沿いに遡行できた美しい川原も、岳人や釣人の宿泊地だった湯の花温泉も湖底に沈めてしまった。……

▽上流部は日本有数のダム銀座
 奥利根水源の森のある利根川の上流部には、八木沢ダム以外に奈良俣ダム、須田貝ダム、藤原ダムがあり、日本有数のダム銀座だ。これらのダムは、首都圏の水がめとなって日本の高度経済成長を水(急激な都市化で人口が急増した都市住民への飲料水と需要が増大した工業用)とエネルギー(水力発電)で支えた。日本の経済大国化にこうしたダム群の果たした役割は大きい。一方で負の遺産として、都市の過密化と地方の過疎化をいう深刻な事態を招いた。また、ダム群は湯の花温泉同様に、それぞれの地域の伝統とか文化、暮らしなどをも湖底に封印してしまった。
_172  一の倉沢にも立ち寄った。写真で中央に見える白いのが谷川岳(一の倉)の雪渓である。このような大水上山中の雪渓の先端が解けて、小さな川となる。小さな川が集積し、大河となって322キロの旅をする。そして最後は太平洋に流れ込む。ロマンッチクだ。なんか、ワクワクしてくる。帰郷した際、もう一度、利根川に沈む夕陽の方向にある「水源」を眺めてみたい。

| | コメント (29) | トラックバック (1)

2005年9月 6日 (火)

「弘智法印」と「日蓮上人」の足跡が寺泊に!

_070  8月末、遅い夏休みを取って「日本海の鎌倉」といわれる新潟県の寺泊を訪れた。寺泊や良寛の生まれた隣接の出雲崎町は、まさに「良寛の町」という感じだった。でも、この寺泊で、嬉しいことに故郷の千葉県が生んだ二人の聖人「弘智法印」と「日蓮上人」の足跡をこの目で確認することができた。

▽現存する日本最古の即身仏は八日市場市出身 

 弘智法印は、八日市場市出身だ。現存する日本最古の即身仏として、西生寺(真言宗)に祀られている。西生寺は北陸随一の霊場というだけあって、「密教」的な色彩が濃厚だった。
 即身仏になるには、想像を絶する修行が必要という。境内に大きな像が建てられたが、迫力満点で、力強さが伝わってきた。西生寺のHPで弘智法印は、次のように紹介されている。時空を超えて、今なお故郷の聖人が、多くの人々の信仰を勝ち得ていることに感激した。

【西生寺のHPの弘智法印の紹介】
●千葉県八日市場市出身
 現存する日本最古の即身仏(640年前、鎌倉時代)である弘智法印は、千葉県八日市場市大浦の鈴木五郎左ェ門の次男「音松」として生まれました。
同村の蓮花寺の住職の後、全国行脚の旅に発たれ高野山で修行を積み、四国遍路の旅をして九州へ。さらに江戸や信州(長野県)、奥州)を中心に寺院を建立し、日本海側を下って越後(新潟県)に入りました。

●厳しい3千日の修行
 そして弥勒下生信仰のもと、弥彦山山中の当山の奥の院である養智院で「五穀十穀断ち」といわれる三千日の厳しい木食行を成満して、1363年(貞治2年)10月2日、御歳66才で御入定されました。
その後、御身体は今の弘智堂に移され、代々の住職や村の人々、御信者達によって600有余年もの間守られてきました。

●入定されてから今日まで
 この間、戦国時代には、奴兵に槍で胸を突かれたり)、明治維新による廃仏毀釈で寺が衰退してしまった時期もありました。また、全ての即身仏にとって一番の大きな危機となったいわゆる「出開帳」を弘智法印即身仏も2度行うなど、即身仏となった後も数々の波乱の時代を乗り越えて現在に至ります。弘智法印の実家となる鈴木家とは今でも交流があり、毎年お参りをいただいております。

●弘智講
 毎年、弘智法印が入定された10月2日には、弘智法印即身仏の大祭法要の「弘智講」が行われます。この日は朝から200~300人もの檀信徒の方達のお参りがあり、施餓鬼法要や法話にお斉(昼食)、土田芸能社による昔ながらの演芸で一日中賑わいます。

●「御衣替え」とその不思議
 また12年に1度、西生寺ではこの弘智法印即身仏の身に着けている「衣」を取り替える儀式が行われます。当日は弘智堂を閉め切り、精進をして身を清めた住職と施主のみでひっそりと執り行われます。
 不思議な事にこの「御衣替えの日」は、昔からどんなに晴れていてもその時になると雲行きが怪しくなり、雨が降り出して大荒れの天気になるといわれており、実際私も嫁いでから2度この御衣替えに逢いましたが、2回ともその通りで驚きました。住職に理由を訊くと、「弘智様が御身体に触れられるのをあまり好ましく思わないのではないか」との事です。

▽日蓮上人の「北国最初の霊地」

_7  「魚のアメ横」近くにある「硯水の霊井」は、文永8年(1271年)、日蓮宗の開祖・日蓮上人が佐渡へ流罪になったとき、寺泊で船を待ちながら説法した「北国最初の霊地」だ。日蓮上人は千葉県の安房の出身である。日蓮上人の「立正安国論」を危険思想と見た鎌倉幕府は、鎌倉の片瀬竜ノ口(たつのくち)で、斬首の刑に処する決定をした。処刑が執行されようとしたときに、突然、雷雲が響き、稲妻が走り、危うく難を逃れ、佐渡への流罪を申し渡されたという。
 
 日蓮上人は、ここに7日間滞在し、上総国(千葉県)中山の弟子日常宛に「寺泊御書」を書いた。そのとき用いられた硯水が、この霊井で、今も冷たく澄みきった水がこんこんと湧き出ているという。 「硯水の霊井」のすぐ近くに日蓮上人獅子吼の説法銅像がある。昭和39年、信者一同によって、建設された。銅像の下には、日蓮上人の三大大誓願が刻まれている。
  我日本の柱とならむ
  我日本の眼目とならむ
  我日本の大船とならむ

 この銅像に限らず、これまで見た日蓮上人の像はすべてパワフルだ。余談だが、旅館で紹介してもらったお寿司屋さんが「住よし寿司」。「硯水の霊井」のすぐ下にある。8月30日、寺泊を去る前に再訪した。店は開いていた。月曜日が定休日とのことで、前日は閉まっていた。おすしの味はまずまずだった。ご主人と良寛や日蓮上人のことで、話が弾み、ナスのお新香とかスルメイカのにぎりなどをサービスしてもらった。いい思い出を持って、寺泊を後にすることができた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »